た行
高木豊三(たかぎとよぞう)
嘉永5年(1852)〜大正7(1928)
旧北桑田郡神吉村(神吉村は昭和30年に船井郡八木町に編入)出身。明治17年に司法省法学校を卒業後、大審院判事・司法省民刑局長・司法次官などを歴任し、帝国大学講師や法典調査委員を務める。明治33年から亡くなるまで貴族院勅選議員。日本の近代法の基礎を築いた先駆者の一人で、『刑法義解』『民事訴訟法論綱』などの著書・訳書多数。法学博士。明治法律学校(明治大学法学部)の講師も務め、梅謙次郎らと明法会を結成している。京都商工会議所初代会頭の高木文平は実兄。
更新日 平成19年12月12日
高木文平(たかぎぶんぺい)
天保14年(1843)〜明治43年(1910)
旧北桑田郡神吉村(神吉村は昭和30年に船井郡八木町に編入)の豪農で旗本武田兵庫の代官も務めた家に生まれ、明治維新直前には自らも代官になる。維新後は地元で学校教育・殖産興業を指導、明治8年に京都府に出仕、その後実業の世界に転じ、明治15年、京都商工会議所(当時は会員制)の初代会長に就任。同21年渡米して電気鉄道を実見し、同27年に日本最初の市街電車となった京都電気鉄道会社を興し、初代社長となる。京都府会議員や京都市会議員も務めた。
更新日 平成19年12月11日
高橋博樹(たかはしひろき)
昭和46年(1971)〜
伝統工芸作家、NPO法人京都匠塾代表。大阪市に生まれ、神戸大学・同大学院を卒業後、建築設計・都市計画事務所勤務を経て、園部町の京都伝統専門学校(現京都伝統工芸大学校)で木工芸を学び、現在同校の助手。平成18年に京都伝統専門学校を卒業した工芸作家・職人を中心に京都伝統工芸の技を受け継ぐ若手職人集団NPO法人京都匠塾を設立、園部町本町の「町家工房息吹」と京都市祇園の「若手職人工房いぶき東山」を本拠に活動する。また、市内の小中学校などで工芸を教えるとともに、工芸教室を開くなど、南丹市における伝統工芸文化の普及と伝統工芸職人の後継者育成にも努めている。
更新日 平成20年2月5日
多岐川舞子(たきがわまいこ)
昭和44年(1969)〜
八木町出身の演歌歌手。京都府立園部高等学校在学中に市川昭介に師事し、卒業後上京して、平成元年に『男灘』でデビュー。多くの曲がオリコン演歌チャート1位になるなど、歌唱力と美貌を兼ね備えた女性演歌歌手の一人として活躍している。代表曲に『あんたの海峡』『信濃川』などがある。
更新日 平成19年9月23日
竹岡林(たけおかはやし)
大正6年(1917)〜昭和57年(1982)
亀岡市本梅町出身の郷土史家。立命館大学卒・京都大学大学院修了後、亀岡高校・大阪工業大学・大阪経済法科大学・京都学園大学などで教えながら、亀岡市史編纂委員・文化財保護委員を務める。専門は丹波地方を対象とした歴史地理学、特に植物から見た研究。亀岡藩・園部藩の城郭の研究も手がけ、南丹市域では中近世の園部城や園部各地の中世城郭遺構の調査研究を行なった。著書に『丹波園部城』『丹波路〜一木一草に秘められた歴史地理』、編著に『写真集〜明治大正昭和 亀岡八木園部』。
更新日 平成20年12月28日
武部源蔵(たけべげんぞう)
園部町美園町の生身天満宮の創祀者と伝えられる。『菅原伝授手習鑑』の登場人物として知られる菅原道真の家臣で、武部治定とも言う。園部は菅原家の荘園で、道真も何度か訪れたという。生身天満宮は、延喜元年(901)菅原道真が大宰府に流されたのち、源蔵が道真の八男慶能を我が子として養育し、小麦山に生祠を建てて道真を祀ったのが創祀とされている。境内には源蔵を祀る武部源蔵社がある。
更新日 平成19年9月23日
田島征彦(たじまゆきひこ)
昭和15年(1940)〜
画家・絵本作家。大阪府堺市で生まれ、5歳の時に高知県に移住。土佐高校・京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)を卒業し、大学教員などを経て昭和49年(1974)から平成12年(2000)まで26年間にわたって八木町で暮らした。絵本の他に、八木町での生活を題材にした『くちたんばのんのんき〜口丹波呑呑記』『王さまが裸で歩いとるわ〜続・口丹波呑呑記』『丹波でいごっそう』などのエッセー集を発表する。絵本の代表作に『じごくのそうべえ』『祇園祭』がある。現在は兵庫県淡路市在住。絵本作家の田島征三は双子の兄弟。
更新日 平成19年10月19日
田中源太郎(たなかげんたろう)
嘉永5年(1853)〜大正11年(1922)
桑田郡亀山北町(現亀岡市)出身の実業家・政治家。北桑田郡神吉村(現南丹市)出身の高木文平と並ぶ口丹波出身の京都政財界の大物とであるとともに、明治32年(1899)に園部までの鉄道を通した口丹波の近代交通の父というべき存在。亀岡北町の漕船業者の家に生まれ、北村龍象や山本覚馬に学ぶ。実業家として30以上の会社創設に名を連ね、主なものとして京都鉄道株式会社(現JR山陰本線)、亀岡銀行(現京都銀行)、京都株式取引所(京都証券取引所)がある。政治家としては京都府議会議員3期・衆議院議員3期・貴族院議員(勅任)などを務めた。山陰本線に関しては、明治26年に京都商業会議所会頭で従弟の浜岡光哲(京都新聞社の創設者)らと京都鉄道株式会社を設立、明治30年に京都〜嵯峨間、明治32年には嵯峨〜園部間が開通。特に保津峡は難工事であった。奇しくも自らが開通に尽力した山陰線の清滝駅付近での脱線事故で保津川に転落して亡くなった。本宅であった亀岡の楽々荘洋館は煉瓦造りの洋館と書院造の和館からなり、庭園は七代目小川治兵衛の作庭で国登録有形文化財。現在はホテルやレストランとして営業されている。
更新日 平成21年1月7日
田中好(たなかこう)
明治19年(1886)〜昭和31年(1956)
園部町城南町出身の政治家。立命館大学を卒業後、京都府・兵庫県勤務を経て内務省に入省。昭和11年(1936)、衆議院議員に初当選。4期務め、道路・交通・治水行政に携わった。小麦山山頂に功績を讃え、岸信介が揮毫した「頌徳碑」が建つ。
更新日 平成19年9月23日
田中弘太郎(たなかこうたろう)
元治元年(1864)〜昭和13年(1938)
旧園部村天神町(現園部町美園町)生まれの軍人。明新堂(現園部小学校)・陸軍士官学校を卒業。在学中に陸軍砲兵少尉に任官。大正13年(1924)に陸軍大将昇進と同時に予備役編入される。編入後は郷里の園部で暮らした。京都府出身の陸軍大将は田中弘太郎と神吉村(現八木町神吉)出身の後宮淳の二人のみである。園部町美園町の生身天満宮境内に誕生之地の石碑がある。
更新日 平成19年9月23日
田中昌太郎(たなかまさたろう)
明治5年(1872)〜昭和39年(1964)
園部村(現園部町)出身の法律家。第三高等中学校(現京都大学)卒業後、判検事試験に合格し、岩国区・広島控訴院の判事、東京地方裁判所・長野県裁判所・京都地方裁判所・札幌控訴院の検事などを歴任。また、立命館中学・商業の父兄会会長、財団法人立命館の評議員などを務め、昭和15年には立命館大学学長に就任した。
更新日 平成20年3月27日
谷口哲(たにぐちさとし)
大正8年(1919)〜
日吉町四ツ谷出身の教育者・郷土史家。京都府師範学校卒業後、教員となり、弓削小学校長・胡麻郷小学校長・日吉町教育委員会教育長などを歴任。地域の生活や自然の中での「ふるさと教育」をライフワークにする。著書に『ふるさと教育』『日吉昔ばなし』『ひよしの碑』『ひよし再発見』。
更新日 平成20年3月5日
谷口善太郎(たにぐちぜんたろう)
明治32年(1899)〜昭和49年(1974)
石川県能美郡辰口町出身の政治家・プロレタリア作家。ペンネームは須井一・加賀耿二。高等小学校卒業後、京都に出て清水焼の職工となり、大正11年に京都陶磁器従業員組合を結成、大正12年に京都の共産党結成に参加、山本宣治と京都労働学校の運営に携わる。昭和3年の三・一五事件で検挙されるが、結核により自宅軟禁中にプロレタリア小説を書き始める。昭和19年、胡麻郷村(現日吉町)開拓に入植する。同時期に胡麻郷村の開拓の携わった者にプロレタリア作家の貴司山治がいた。敗戦後の昭和20年に京都の共産党再建に加わり、同24年に総選挙で衆議院議員に初当選、同25年のレッドパージによる公職追放で議席を奪われるが、同35年に再び当選、以後通算6期務め、衆議院議員団長などを務め、谷善(たにぜん)の愛称で親しまれた。墓は大谷祖廟にある。著者に須井一名で『綿』『清水焼風景』、加賀耿二名で『工場へ』『土地はだれのものか』、谷口善太郎名で『日本労働組合評議会史』など。
更新日 平成20年3月31日
谷嘉昭(たによしあき)
昭和7年(1932)〜
丹波町須知出身の実業家。大井国民学校、旧制園部中学から新制園部高校・西京大学(現京都府立大学)を卒業後、実業の世界に入り、大阪で谷商会(現木材開発株式会社)を設立。現在社長。大阪市住之江区在住。
更新日 平成19年9月23日
玉置半兵衛(たまおきはんべい)
昭和9年(1934)〜
五条大橋東南側に本店がある元禄2年(1689)の麩の老舗、半兵衛麩の11代目当主。本名玉置辰次、当主は代々玉置半兵衛を名乗る。昭和20年の春、京都市立貞教国民学校5年生の時に平屋村(現美山町)に集団疎開し、終戦後の秋まで宿舎である荒倉の覚了寺から平屋国民学校内久保分校に通った。長じてのち、疎開先の美山の地に半兵衛麩の美山総合工場を建設し、なま麸・やき麸を製造している。北桑田郡(美山町・京北町)への疎開体験者で「やまぼうし会」をつくり、体験を語り継ぐ活動を行なう。著書に『あんなぁよおぅききや〜京の言の葉しにせの遺心伝心』。京都市在住。
更新日 平成20年4月10日
田村宗立(たむらそうりゅう)
弘化3年(1846)〜大正7年(1918)
園部村近在で生まれた洋画家。南画・仏画を学んだ後、洋画を学ぶ。京都洋画壇の草分け的存在。明治14年(1881)、京都府画学校の教員になり、西洋画を担当。退職後は画塾明治画学館を開いて後進の指導に当たった。晩年は東洋画に回帰し、月樵の号で墨画を描いた。
更新日 平成19年9月23日
千種姫(ちぐさひめ)
足利尊氏の妹で、夢窓国師の弟子。園部町若森の普済寺を開基したと伝えられる。重要文化財の観音堂には本尊の十一面観音と共に桃山時代に創られた木造千種姫像が祀られている。また、普済寺の東側にある東塚にある五輪塔は千種姫の墓とされている。
更新日 平成19年9月23日
堤ツルヨ(つつみつるよ)
大正2年(1913)〜
八木町野條出身の衆議院議員。旧姓中川。昭和7年、京都府女子師範学校(現京都教育大学)卒業。昭和24年、夫で滋賀県選出の衆議院議員堤隆が亡くなったため、その後継として出馬し、当選。その後、5期務めた。昭和27年の日本の主権回復後は、戦犯に指定された人々の名誉回復に取り組み、先頭に立って署名を集めるなど、戦犯の名誉回復と遺族援護法の改正に尽力した。昭和35年に社会党が分裂した際には、右派の西尾末広・片山哲らが結成した民社党に参加した。
更新日 平成20年8月27日
巴御前(ともえごぜん)
保元2年(1157)頃〜宝治元年(1247)頃。
源平争乱時の女武者で、木曾義仲の愛妾。八木町室橋の如城寺に巴御前の伝承が残り、巴御前は義仲没後、丹波吉富庄出身の乳母の元に隠棲し、その地に如城寺を開基して義仲を弔ったと伝えられる。如城寺には木曽義仲の持仏と伝える阿弥陀如来と2人の位牌が安置されている。
更新日 平成19年9月23日