ま行
馬渕睦夫(まぶちむつお)
昭和21年(1946)〜
八木町日置生まれの外交官。富本小・大江中・園部高校を卒業し、京都大学3年の時に外交官試験合格し、外務省入省。キューバ大使を経て、ウクライナ大使兼モルドバ大使。外務省を退官後、現在、防衛大学教授。
更新日 平成19年9月23日
宮内清吉(みやうちせいきち)
文化7年(1810)頃〜天保7年(1836)
江戸時代の上久保村(現美山町内久保)の義民。寛延4年(1748)以降、園部藩の年貢は五ツ取(五免)という重税が定着していた。天保5年(1834)、父の清七の死去によって家業の農家を継いだ清吉は、その二年後の天保7年、八代藩主小出英発に年貢減免を求めて直訴に及んだ。捕らえられた清吉は死罪となり、簀巻にされ園部川に投げ込まれたが、簀巻の中から手を出して二本の指を示しながら流れて行ったという。清吉の願いが届いたのか、上久保村の年貢は天保7年から二ツ取に減額されたという。昭和4年、上久保村の区民総出で由良川畔に「義民宮内之碑」が建てられた。以後毎年10月10日に仏式(光瑞寺)での義民祭が行なわれ、この日は農休日として村中集まって宴会をする。地元では「くないさん」と呼ばれているが、正しくは「みやうち」と読み、また清吉ではなく清兵衛と伝わっている場合もある。
更新日 平成20年6月4日
宮本茂(みやもとしげる)
昭和27年(1952)〜
園部町出身のゲームクリエイター。園部小中高を経て金沢市立美術工芸大学を卒業後、任天堂に入社し、『マリオブラザーズ』を制作、大ヒットを記録し、任天堂のファミコンを一躍世界的にメジャーに押し上げた。それ以外にも『ドンキーコング』『ゼルダの伝説』などのヒット作を制作。スーパーマリオシリーズや『ピクミン』の舞台は、幼い頃に遊んだ園部城跡がある小麦山、生身天満宮のある天神山であることは知る人ぞ知るエピソードである。現在、任天堂株式会社の代表取締役専務・情報開発本部長。
更新日 平成19年9月23日
源頼政(みなもとのよりまさ)
長治元年(1104)〜治承4年(1180)
平安時代の武将。宮中警護を職務とする摂津源氏の武将で、平家隆盛の世にあって、源氏にも関わらず従三位に叙せられたことから源三位(出家後は三位入道)と称された。治承4年(1180)、以仁王の平家打倒に呼応して挙兵したが、宇治平等院の戦いで敗北し、自害した。頼政は、二条天皇の治世(1158〜65)、宮中を騒がした鵺(ぬえ)を退治した功績により丹波国五箇荘(日吉町から園部町川辺地区にかけての地域)を与えられたという(五箇荘が頼政の領地であったのは史実)。
丹波には五箇荘以外にも亀岡の矢田郷などに頼政の所領があったと伝えられ、亀岡市立つつじヶ丘小学校裏には宇治で戦死した頼政の首塚という伝承が残る頼政塚がある。頼政に従っていた南桑田郡・船井郡の武士は弓の技に優れた者が多く、その子孫は弓箭組という組織を作って帰農して郷士となったのちも射術の研究・訓練を続けていた。弓箭組は戊辰戦争の際に北桑田郡の山国隊とともに新政府軍に加わり、時代祭行列の最後尾の弓箭組列は現在も子孫の南桑田郡・船井郡有志が奉仕している。
更新日 平成20年5月21日
村下博(むらしたひろし)
昭和23年(1948)〜平成21年(2009)
園部町半田出身の法学者。摩気小・園部中高・龍谷大学法学部卒・同大学院終了。法学博士。専門は労働法。大阪経済法科大学教授を経て、副学長在任中に逝去。著書に『社会法の基本問題』『外国人労働者問題を斬る〜国際人権水準の実現をめざして』『外国人労働者問題の政策と法』『「人権」による人権侵害〜教育・啓発と救済機関を問う』、共著に『外国人の政策と権利』『アジアの女性と子どもの現実』『現代社会と人権』など。
更新日 平成21年5月25日
木喰(もくじき)
享保3年(1718)〜文化7年(1810)
江戸時代の遊行僧。甲斐国(山梨県)に生まれ、22歳で出家、45歳の時に木食観海から木食戒(菜食の上、さらに五穀を絶ち、火を通さない山菜や木の実などのみを食べる戒律を守ること)を受け、以後「木喰」を名乗った。木喰行道・木喰五行菩薩・木喰明満仙人とも称した。宗派に属さず、全国を遊行遍歴し、各地に木彫りの仏像を残した。木喰が彫った仏像は死後長らく忘れられていたが、大正12年に美術史家の柳宗悦が見出し、木喰仏として有名になった。文化3年(1806)、最晩年の89歳の時に八木町諸畑の清源寺に滞在し、翌年にかけて28躰を造像した。現在、清源寺には22躰、近くの蔭凉寺には5躰の木喰仏が残っている。清源寺にある十六羅漢像は木喰の最高傑作とも言われている。
更新日 平成19年10月12日
森茂明(もりしげあき)
昭和16年(1941)〜
美山町の民宿「もりしげ」主人。京都の宮川町の郭に生まれ、学生時代から川釣りに耽溺、立命館大学大学院中退後、釣具店を経営する。田舎暮らしへの憧れが昂じて、昭和51年35歳の時に妻と二人の子供を連れて美山町肱谷に移住し、農業を始める。同58年に内久保の萱葺き民家に移住し、民宿「もりしげ」を開業する。美山の自然をこよなく愛し、「芦生の自然を守り生かす会」のメンバーとしてダム反対運動にも関わる。エッセイストとしても知られ、著書に『晴れて丹波の村人に』『芦生奥山炉辺がたり』がある。
更新日 平成20年2月8日
森本安夫(もりもとやすお)
昭和18年(1943)〜
園部町在住の学者。愛媛県八幡浜市に生まれ、大阪大学理学部卒業・同大学院博士課程終了。理学博士。沖電気部品研究所に入社し、昭和53年から明治鍼灸大学(現明治国際医療大学)の助教授に就任、同59年に教授となる(現在は退職)。昭和55年から平成16年までの25年間にわたり、大学を観測地点にして気象の観測・記録を続けたことでも知られる。そのデータは「明日は晴れるか? 私設保野田気象台報告」として物理教室年報『アルゴン』等に発表されている。著書に『ザ・ペーハー あなたのはいくつ?』など。
更新日 平成20年11月18日
森良男(もりよしお)
昭和27年(1952)〜
園部町出身の舞台俳優。園部小中高卒業、玉川大学を中退して劇団民藝に入団し、俳優の道に入る。狂言和泉流家元和泉元秀に入門し、狂言も学ぶ。最近の舞台は『根岸庵律女』『勤皇やくざ瓦版』『漁港』『桜の園』など。イギリスやアメリカ公演にも出演している。東京都在住。
更新日 平成19年9月23日
文覚(もんがく)
保延5年(1139)〜元久2年(1205)
真言宗の僧侶。俗名は遠藤盛遠と言い、元は上西門院に仕える北面の武士だった。後白河天皇に神護寺再興を強訴したことで伊豆国に配流される。伊豆では同じく配流されていた源頼朝に挙兵を促し、源氏が天下を取ると頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺などの再興に務めた。晩年は後鳥羽上皇に疎まれ、対馬に配流されることになり、その途上日向の地で客死した。八木町の吉富庄は頼朝がこの地を神護寺に寄進したことで文覚とゆかりができ、文覚伝承が残っている。治承年間(1177〜81)、文覚が室橋を訪れた時に水源が遠く村人が干害に苦しんでいるのを見て、文覚池や新庄用水・新庄堰を開削したと伝える。文覚池から官山川まで流れる新庄用水の水路の上には文覚堂が残る。
更新日 平成19年9月30日