な行
内藤ジョアン(ないとうじょあん)
天文19年(1550)頃〜寛永3年(1626)頃
戦国時代のキリシタン武将。内藤飛騨守忠俊。細川氏の家臣で丹波守護代として八木城に本拠を置く戦国大名内藤氏の子として生まれ、十代でルイス・フロイスから洗礼を受け、ジョアン(如安)という洗礼名を与えられた。明智光秀によって内藤氏が落城後、足利義昭に仕えた後、同じくキリシタン武将である小西行長に仕えた。慶長19年(1614)、徳川幕府がキリスト教の禁教令を出し、ジョアンは一族やキリシタン武将の高山右近らと共にフィリピンのマニラに追放された。死後、マニラ市郊外の高山右近の墓の隣りに埋葬されたと伝えられる。城山(八木城址)を臨む春日神社の近くに顕彰碑が建っている。
更新日 平成19年9月23日
内藤良助(ないとうりょうすけ)
天保6年(1835)〜明治30年(1897)
園部町上河内村(現園部町船岡)出身の医者・政治家。日吉町殿田の田原川と大堰川との合流地点にある大西堰の用水を船岡まで引く大将軍隧道掘削を推進した。明治9年(1876)上河内村・松尾村・藁無村が合併してできた船岡村の初代村長となり、明治22年には熊原・佐切・大戸・高屋・越方・船岡が合併してできた河辺村の初代村長となった。大正15年、川辺・桐ノ庄村水利組合が内藤良助翁碑を建てその功績を顕彰した。
更新日 平成20年6月28日
中川泰宏(なかがわやすひろ)
昭和26年(1951)〜
八木町出身の政治家。京都府立園部高校を卒業後、実業家として活動する。八木町議会議員・八木町長を経て、平成17年の郵政解散選挙で小泉チルドレンの刺客候補として衆議院議員に初当選。JA京都の会長も務める。著書に『北朝鮮からのメッセージ〜日本への警告を込めて』『弱みを強みに生きてきた』がある。
更新日 平成19年9月23日
中川喜久(なかがわよしひさ)
昭和26年(1951)〜
八木町出身の演歌歌手。『茉莉花の雨』など4枚のCDをリリース。KBS京都のパーソナリティーも務めている。
更新日 平成19年9月23日
中田慶雄(なかたよしお)
昭和5年(1930)〜
平屋村(現美山町野添)出身の日中経済交流コーディネーター。平屋国民学校高等科(現平屋小)卒業後、敗戦直前の昭和20年5月に満蒙開拓少年義勇軍として中国に渡る。敗戦後、ソ連軍の捕虜になるが、中国人農家に助けられ、中国東北部(旧満州)の石油化学工場などで働く。昭和28年から中国人民大学・復旦大学で経済学と中国語を学び、昭和33年の帰国後は日中の経済交流事業の発展に尽力。昭和39年に日本国際貿易促進協会の事務局に入り、平成6年には理事長に就任(現在は退任している)。吉林省・上海市など中国各地の経済顧問を兼任し、平成15年には中日友好協会から「中日友好使者」、同18年には中国国際貿易促進委員会から「名誉会員」の称号を授与される。著書に『大陸にかける橋・五〇年』など。東京都在住。
更新日 平成20年4月17日
中西君尾(なかにしきみお)
天保14年(1844)〜大正7年(1918)
富本村西田(現八木町西田)生まれの祇園の芸妓。父の友七は侠客で園部藩の入方元締だった。文久元年(1861)、祇園の島村屋から君尾という名で芸妓となり、その美貌と気風の良さから売れっ子になる。高杉晋作をはじめ、久坂玄瑞・桂小五郎・井上聞多・品川弥二郎・西郷隆盛など維新の志士に贔屓にされ、志士側に立った活動をしたことから勤王芸者と呼ばれ、桂小五郎は妓侠と呼んだという。なかでも井上と品川とは親交が厚く、井上が襲撃された時には君尾が贈った鏡を懐に入れていたために刀が止まり九死に一生を得たというエピソードがあり、品川との間には一子をもうけている。戊辰戦争で歌われた有名な「とことんやれ節(宮さん宮さん)」は、品川作詞・大村益次郎作曲とされているが、実は君尾が作曲したと言われている。君尾は大衆文学の題材にもなり、小川煙村『勤王芸者』(明治43年)、井筒月翁『維新侠艶録』(昭和3年)などに詳しい。墓は三条大橋東の超勝寺にある。
更新日 平成20年2月21日
中西文彦(なかにしふみひこ)
昭和21年(1946)〜
園部町出身の洋画家。園部小中高・京都教育大学専攻科修了後、美術教師をしながら作品を発表、昭和48年に京展市長賞、昭和53年に京都画廊連合会選抜展京都府知事賞を受賞。京都新聞の連載小説、折目博子『ニ都ものがたり』(昭和58年)、藤本恵子『百合鴎』(平成6〜7年)の挿絵を担当。京都精華大学の講師も務める。著書に『風景との対話〜水彩画とエッセイ』の他、園部町の教育者である父の中西鋼二との共著『我が少年記』がある。
更新日 平成19年11月5日
中野業国(なかのなりくに)
文化10年(1913)〜明治22年(1989)
知井郷北村(現美山町北)の旧家に生まれる。本名は友治郎。独学で和漢の経典に通じ、19歳で神宮皇后征韓図を書いて知井八幡宮に掲げ、郷人を驚嘆させた。寺子屋を開いて経書を講じ、人倫を説いた。絵画の才能が篠山藩の注目するところとなり、藩の必要とする絵図面の製作を一手に引き受け、藩より苗字帯刀を許された。明治5年に戸長となり、村政を改革した。晩年は維新前後の隠れた人物史実を記録した『明治新誌風聞録』を書くことに勢力を傾注したが、未完のまま没した。各地に絵図作品が残る。
更新日 平成20年4月24日
西村和雄(にしむらかずお)
昭和20年(1945)〜
京都市出身で日吉町在住の学者・農業指導者。京都大学農学部卒・同修士課程修了。王子製紙林木育種研究所(現森林資源研究所)・環境科学総合研究所で研究を行なう。京都大学農学部助手を経て、京都大学フィールド科学教育研究センター講師(平成20年退職)。専攻は植物栄養学・植物地球化学。農学博士。環境保全型農業の第一人者として、30年以上有機農業に関する研究と指導を続け、ヨルダンやマラウィなど海外でも指導。現在は日吉町のガイア自然農法塾を拠点に、有機農業従事者の育成を図る。NPO法人ガイアプロジェクト代表・NPO法人有機農業技術会議代表・財団法人自然農法国際研開発センター理事。著書に『スローで楽しい有機農業コツの科学』『おいしく育てる菜園作りコツの科学』、共著に『おいしい野菜の見分け方』。
更新日 平成21年6月28日
西田達雄(にしだたつお)
昭和12年(1937)〜
摩気村(現園部町口人)生まれの経済人。園部高・大阪外語大学卒業後、住友商事に入社し、専務取締役・顧問となる。経済界代表としてロシア・中央アジア対話ミッションに参加。園部高校桜ケ丘同窓会関東支部長。東京都在住。
更新日 平成19年9月23日
蜷川親当(にながわちかまさ)
?〜文安5年(1448)
園部町高屋の蟠根寺城(蜷川城)の城主で、足利義教の政所代を務めた。通称新右衛門。蜷川氏は元は宮道氏、源頼朝に仕えた親直が越中国蜷川庄を領地としたことから蜷川を名乗るようになった。子孫は足利氏に仕え、親当の祖父親朝が高屋に蟠根寺城を築いた。親当は和歌・連歌・書道・絵画を良くし、なかでも連歌に優れ、『親当句集』にまとまっている。宗祇は親当を連歌七賢の一人に選び、『竹林抄』や『新撰菟玖波集』にも収録している。義教の死後出家し、一休宗純の弟子として智蘊と号した。アニメ『一休さん』の蜷川新右衛門は親当がモデルである。室町時代末期に主君足利義輝が謀反で殺害されるとともに蜷川氏も没落し、直系は丹波を離れたが、子孫の親長は徳川家康の御伽衆として旗本となった。
更新日 平成20年1月1日
野寺夕子(のでらゆうこ)
昭和34年(1959)〜
岐阜県に生まれ、岐阜大学農学部卒業後、地元新聞社勤務を経て、昭和60年に京都に移住、フリーのフォトライターとして女性問題をテーマに活動を始める。平成10年より日吉町を拠点に活動。『臨月』で平凡社主催の第33回準太陽賞受賞。著書に『臨月 The last month〜妊婦100人のドキュメント・ヌード』『遺影、撮ります。〜76人のふだん着の死と生』など。平成19年11月7日より京都新聞丹波ワイドに「野寺夕子のセピア色の胡麻便り」を連載。
更新日 平成19年11月8日
野中広務(のなかひろむ)
大正14年(1925)〜
園部町城南町出身の政治家。旧制園部中学校(現園部高校)卒業後、大阪鉄道局の職員となる。政治家を志し、園部町議会議員になる。町議会議員時代に郷里出身の政治家田中好の秘書となる。園部町長・京都府議会議員から京都府副知事を経て、昭和63年に衆議院議員当選、当選7回。自治大臣・国家公安委員会委員長・内閣官房長官・自民党幹事長などを歴任し、1990年代の政界や社会問題の折々の局面で重要な役割を果たした。政界引退後は講演や評論活動などを行なっている。著者に『私は闘う』『老兵は死なず〜野中広務全回顧録』、近著に野村克也との共著『憎まれ役』がある。京都市在住。
更新日 平成19年9月23日
野々村仁清(ののむらにんせい)
慶長18年(1613)頃〜元禄7年(1694年)頃
丹波が生んだ江戸初期を代表する陶工。丹波国野々村(現美山町大野)に生まれる。本名は清右衛門。御室仁和寺の門前に窯を開き、仁和寺の仁と清右衛門の清を取って仁清と名乗る。作品には国宝「色絵藤花文茶壺」「色絵雉香炉」などがある。
更新日 平成19年9月23日
野々村美好(ののむらみよし)
昭和12年(1937)〜
美山町大野出身の教育学者・郷土史家。大野小・北部中(現美山中)・北桑田高・法政大学・京都教育大学専攻科終了。周山中学校、宮島小学校・周山小学校・細野小学校、京都府立向日ヶ丘養護学校などで教える。中学校では主に数学、小学校では主に障害児教育を担当。発達や障害児教育などの研究を深め、Ph.D.(教育学博士)を取得。京都女子大学名誉教授の小田義彦博士らと日本子どもの発達研究所を創設し、本部・事務局を美山町大野に置いて、研究・セミナー・出版などの活動を行なう。また、郷土史家として大野区誌の編纂委員を務め、地元出身の陶工野々村仁清の研究も行ない、『美山町誌』の「野々村仁清について」を執筆している。著書に『科学的な発達の道すじ〜絵や図でさぐる0歳から12歳』『発達への挑戦〜2000日の教育実践』など。
更新日 平成20年3月15日